戦国時代、豊臣秀吉が天下統一を目指しており、高野山にも降伏を迫りました。
このとき木食応其上人は高野山を代表して、この要求に対して交渉を重ねて、聞き入れられました。このあと木食応其上人は、現橋本市古佐田の荒地開拓のために家を建て、町を興し、物流の便利のために紀の川に約235メートルの橋を架けました。「橋本」の地名はここから生まれたと言われいます。また木食応其上人は秀吉に願い出て、塩の売買の認可や税の免除の特権を認められています。これによって橋本は、街道を行きかう人々と紀の川の物流とによって、経済的に発展していくことになりました。
(橋本市HPの説明引用)
正に応其さんは橋本の町を作った人、なんです。この応其さんが紀の川に橋を架け、これが今の橋本の地名の由来となりました。
高野参詣者の往路として利用され、宿場や塩市が開けて、橋本市発祥の源になりました。今でも高野町でないけど高野口駅などが橋本市にあるように、高野山の宿場町や物流地点などで栄えてきたのが橋本市です。紀ノ川を利用して物資を和歌山市まで送ったり、今でも和歌山県人口の80%くらいは紀の川市周辺にいるとからしく、まあ中心なんです。紀ノ川は日本一よく雨が降る大台ケ原を水源としているので、この写真なんかは静かなものですが大雨降ると一気に濁流がいろいろ来て合流してすごいことになります。
いちおう高野口町は昔からあった町ですが今は橋本市と合併したので、橋本市高野口町にある高野口駅、という名前になるのですが、高野口町も橋本市も高野山で栄えてきた町です。
そんな感じに応其を思いながら橋本橋を渡ります、下から読んでも橋本橋。わたってちょっと行くと黒河道のスタート定福寺です。