黒河道は、橋本よりいくつもの登り下りを繰り返しながら、高野三山のうちの二つ、摩尼山、楊柳山の間にある黒河峠を抜け、大師庫裏から鶯谷の黒河口人堂へ向かう道である。登り口の橋木は九度山より東にあり、大和方面からの利便性があるように感じられるが、不動への高野街道に比べて距離が長く、起伏も激しいことから、地元の人以外には、あまり利用されなかっ たようである。
ただこの道に関しては、大閤秀吉にまつわる興味深い話が伝わっている、文禄三年(1594) 高山厳寺(現・金剛峯寺)において山内の狂言を催した秀吉は、急な雨を大師の怒りと感じ、麓の隅田にある利生護国寺まで黒河道を馬で駆け下ったというのである。
この下山は『紀国名所図会』によると「此峠(黒河峠)の面を越えられしといひ伝ふ」とあるので、下り始め黒河ではなく楊山の松峠(子峠)をへて久保に出たものと推測される。まで言い伝えの域を出ない話だが、高野山のを破ることによる報いは、最高権力者をも恐れさせるほどのものであったということだろうか。
定福寺さん八幡さんもお参りできます。
参拝はしぼうののぼりが至る所にありまして、意外にこれは助かるんです。
山道などで田んぼ道など迷いそうなときに、はしぼうのぼりを見つけるとこっちであってるなという認識になりますので。また、まあ歓迎感あるのも多少は嬉しいものです。
山道から急に道路出てどっち行くのだ?とかいうときも、のぼりのほうに進めばまあ正解ですので。ばいばいはしぼう。
黒河道は高野七口の一つ黒河口に至る高野参詣道で、橋本市賢堂から国城山東麓の明神ヶ田和を越え、
九度山町の市平で丹生川を渡り、久保から高野町の粉峠を越え、高野山内の千手院谷に入る登山道である。橋本から高野山への近道とされ、また、大和国 (奈良県) からの参詣客がよく利用されたことから大和口とも呼ばれた。天正9年(1581) の史料には 「大和口」と見え、正保元年(1644) の史料には 「大和口又号口」とあり、江戸時代後期の「紀伊国名所図会」には「黒河口は大和口ともいふ」とあって、その呼称は時期により変遷があり、 一定していなかったようである。
道が院しいことから、多くの参詣客は黒河道の西方を並行する京大坂道を利用したようだが、道は文禄3年(1594) の豊臣秀吉の高野参詣の帰途に用いたと言われ、そのルートが 「紀伊続風土記」に見える。 高野山麓周辺では、地域の産物を高野山へ奉納する「雑事のぼり」 にも利用されたと伝えられ、物資の輸送にも用いられたものと推定されている
定福寺 [1番】 から粉撞峠(こつきとうげ) 【26番】 までは、番号道標が500M 毎に立っている。
黒河道はここがスタートなので500メートルごとに木の看板に「1」「2」「3」と進んでいって、26までいくと粉撞峠になって女人道と合流しますので26で終了です。なのでここから13キロと計算したらOKなのですけど、登っては降りたり時には石ころもたくさんだし雨降った後は道に水たまりできてるし、急な坂が長く続くと相当息も切れますしというので13キロ普通のランニングとはまた違います。