宗祖弘法大師の法孫真隆阿闍梨が初代住職のお寺です。
寿永3年(1184年)2月7日、摂津(今の神戸市)一の谷における源平の合戦(鵯越の逆落とし)に敗れた平家方の将兵は友軍の軍船に逃れましたが、この時遠浅の海に駒を乗り入れた武将を呼び返した熊谷直実は格闘数合やがて組敷いて首級をあげようと良く見ると、一子小次郎直家と同年輩の美少年、平家の大将参議経盛(1,125~1,185)の末子敦盛(1,169~1,184)でした。
直実は同じ日の未明、敵の矢に傷ついた直家の「父よ、この矢を抜いてたべ」との願いを耳にするも、敵中の事とて傷の手当てをする暇なく敵陣深く突入した時の親心の切なさを思い起こし、敦盛の首を斬るに忍びず、暫し躊躇ったのですが、心を鬼にして首を掻き斬ったのです。
かくて直実はほとほと世の無常を感じて発心し、当時日本一の上人と尊崇されていた吉水の法然上人の弟子となり「法力房蓮生」の名を与えられ、専心念仏の行者となったのです。
この話は有名で、小学館まんが日本の歴史にも掲載されていました。敵とは言えわずか15歳の子供を討たないといけない時代、敦盛を弔うために直実は高野山に来るのですが、熊谷寺の始まりがこんな理由です。
平敦盛並びに源平総死者供養を行っています、戦だから仕方ないにしろ自分の子供と同じくらいの年齢の子供の首を取るのはしのびない、直実はこの後高野山で出家し法然を師と仰いで修行していきます。実は佐々木高綱も高野山に出家していて、この時代では出家すること自体が俗世間を捨てて、敵味方関係なく逝った方たちの供養することが多かったようです。
戦で自分が殺されるかというぎりぎりの体験と、仕方ないにしても子供も討ち取らないといけない状況、さぞつらかったことかと思います。
高野山熊谷寺は宿坊にもなっています。