今も昔も紀伊半島は雨が多く台風も来るので、大規模な土砂崩れが発生したりもします。
去年もその影響で、大門(7町)から矢立(60町)までの区間を通行止めになりまして、今は33町から35町だけ回避ですが、そんなものです。
高野山町石道の矢立手前になぎ倒されている木々がありまして、おーっと思いましたがよっこらよっこら歩いて抜けました。
高野山への参詣道は7本あるのですけど、その中でも弘法大師空海が高野山
開創の際に切り開き、 1町(約109m) 毎に木製の卒塔婆を建てて道標とし、その後も表参道として利用されてきた道が「高野山町石道」です。町石道は、麓の慈尊院から高野山へ通じる180町 (曼荼羅の「胎蔵界」を表す)と壇上伽藍から弘法大師御廟までの36町(曼荼羅の「金剛界」を表す)とに分かれています。鎌倉時代に覚きょう上人の発願により各層に寄進を募り、朽ちた木製 の卒塔婆の代わりに、20年の歳月をかけて現在の石造りの五輪塔形の町石が建てられました。
町石には壇上伽藍からの距離 (町数)のほか、仏様を表す梵字、寄進者の名前、 建立年月日や目的などが彫り 込まれています。216基のうち179基については当時のものが遺り、一町毎に礼拝を重ねながら高野山上を目指した参詣の様子を今に伝えています。高野山町石道は「紀伊山地の霊場と参詣道」として、2004年にユネスコ の世界遺産に登録されました。