湯の峰温泉は、日本最古のお湯としても名高く、また、熊野詣の湯垢離場として知られ、小栗判官蘇生の地と伝えられています。
高温(93度)の温泉が自噴し、古くから薬効高い熊野の湯治場として有名です。ボーリングが行われていない特異な温泉で、学術的にも貴重な資源です。
立札より
悲しくも「非業の毒殺」という相州惨事 (神奈川県) に端を発した小栗判官伝説は、室町時代の特筆される悲話として全国に広まり、脈々と平成の現代へ伝承されてきた。
その主人公「小栗判官」と称された人物は、常陸の国(茨城県) 小栗15代城主小栗彦次郎平助重で、室町時代の応永9年(1402)のころに、 14代城主小栗満重の子として誕生したと伝えられている。
応永三十年(1423)八月二日、小栗城は鎌倉公方足利持氏の攻撃を受けて落城し、 小栗主従は三河(愛知県)の一族等を頼って落ちる途中の応永三十三年(1426)三月十六日、藤沢辺は東俣野 (横浜市戸塚区)で毒殺事件にまきこ まれた重は、照手姫の機知によって九死に一生を得ることができ、時宗総本山・無量光院清浄光寺 (藤沢市) 八世、 他阿太空上人(遊行十四代)に助けられた。
だがその姿は無惨にも餓鬼阿弥という醜い姿に変わり果て、幸にして太空上人の配慮による土車 (箱車)乗行となり、 熊野霊泉を目指した判官助は、長い旅路を多くの人達の援助によって引かれたが、中でも狂女の風体に身を変えた 照手姫が土車を先にたって引いた事は、小栗外伝熊野編の有名な物語の一つである。
なんとか長い苦難の路を経て湯の温泉 (本宮町)に辿り着き、菜王山東光寺の薬師如来に平癒を祈願し、霊験あらたかな「つぼ湯」で療養した結果、湯のの功徳と熊野権現の大きな加護を賜り、ついに助重は蘇生して本復をとげという伝説の舞台になったのも、この「湯の峯の霊泉つぼ湯」なのである。
その後助重は、一族の小栗貞重(愛知県) に身を寄せ、一族とともに小栗復興等に尽力し、その推進対策が展開されたという。
更に相州(神奈川県)での毒殺事件の首謀者・横山大膳の征伐と、沢山 (藤沢市) に眠る父満重を初め十勇家臣への菩提を弔う善に、 謝恩の供養を担った助重は、永享十二年(1440)、足利持氏の遺子(春王丸・安王丸)が幕府に対して挙兵・結城氏朝(結城市)がこれを助けた結城合戦(1441)に、幕府側の武将として大いに奮戦し、その論功により念願であった小栗領への復帰を達成することができた。
助重はその後14年間15代城主として君臨し、特に旧に倍した勢力の拡大が推進されたと伝えられている。 しかし助重は、徳四年(1455)閏四月、古河公方足利成氏と小栗山麓(協和町)で大戦となり、5月1日、奮戦く破れ小栗は再び落し、これが小栗家の最後となった。
そして重がこの小合戦で何処に落ちたのか、また何れで最期を遂げたのか、正確には解っていない・・・。
久寿二年(1155)の小栗家創設から、 15代に至る300年という長き盛の歴史の中に生きた小栗武名は、ここに「滅亡」という非情な運命と共に無念にも儚く消えていった。
ただ、助重の菩提寺である桂北山一向寺 (協和町小栗) の過去帳には、助重の戒名が「天照院殿前金大誉崇大居士 八十五歳没」とあり、境内には「判官助重善の碑」が建立されていて、没日が文明十八年(1486) 丙午八月十六日と刻されている。
ここに餓鬼阿弥判官助重が、熊野信仰に名高き一遍上人(時宗開祖)の導きで、熊野権現の大きな加護と、併せてつぼ湯の霊泉に光明を拝した、熊野蘇生の名所である湯の峯の地を記念し、更に桓武平氏の流れを汲んだ偉大な城主であり、悲運の名将であった「小栗判官」こと、小栗十五代城主、小栗彦次郎平助重の遺徳を称え、その事跡を概略ながら顕彰するものである。