吉野には源義経に関しての有名な首塚があります。
吉野一の荒法師と呼ばれた僧兵・横川覚範は、源義経を追いますが、佐藤忠信が花矢倉で防戦し、高台から矢を射かけ、横川覚範を討ち取ったと伝えられています。
義経の忠臣、義経四天王に数えられる佐藤忠信。
実は義経隠れ家は金峰神社の奥にあったりしますが、これはまだ吉野でも奥に行かないといけません。
なお吉野なので春シーズンはこの首塚あたりも桜満開で、見事な千本桜が楽しめて吉野周辺は大にぎわいになります。なんで吉野に桜?なのですが後醍醐様が好きだったらしい。
この辺の上下が上の千本で、俗に滝ざくらといわれているところである。花の盛りに下の方から見上げると、あたかも花の滝がたぎり落ちるように望まれるので、こう名付けられたものである。
この小さな丘が横川の覚範の首塚という伝承をもっている。文治元年(1158)12月、兄頼朝の怒りに触れた源義経が、武蔵坊弁慶をはじめ、
佐藤忠信、伊勢の三郎、常陸坊海尊、鷲尾の七郎、片岡の八郎といった一騎当千のつわものとともに、愛妾静御前を連れて雪の吉野山に潜入し、
吉水院(吉水神社)に身を隠していたが、金峯山寺衆徒の味方を得ることができず、途中で静とも別れ、この上の子守の社水分神社まで逃げのびてきたが、
豪僧横川の覚範が追いすがってきたので、家来の一人佐藤忠信が義経の身代わりとなって、中院谷(首塚の後ろの谷)で戦い、この少し上の花矢倉から矢を浴びせ、
覚範を討ち取りそのすきに義経一行を落のびさせたのであった。そして討たれた覚範の首を埋めたところが、この塚だといわれている。このことは「義経記」という本にくわしく描かれている。