漢の中の漢、忠義の勇士・村上彦四郎義光と大塔宮護良親王

内臓を掴み敵に投げつける壮烈な最期

村上義光の墓

村上彦四郎義光は信州の人で、早くから大塔宮護良親王に従って北条幕府と戦いましたが元弘三年吉野城が落ちたとき、大塔宮の身代りとなって蔵王堂前二天門の高やぐらの上で腹かき切って果てました。その義 光の首を検分した北条方が、大塔宮でないことを知り、ここ に捨てられたのを、里人がとむらって墓としたものです。なお義光の子義隆も、父とともに死のうとしましたが、 大塔宮を守って落ちのびるようにさとされ、高野山に向う 途中追ってきた敵と戦い、ついにここから二ほどへだてた山中で討死しました。義隆公の墓は、勝手神社の南西一」のところにあります。 忠烈碑は天明三年(一七七三)十月、大和高取藩士内藤景文が義光の戦功をたたえて建てたものです。

蔵王堂に一人残った義光は、護良親王から賜った鎧を身に着けると、程なく迫り来た幕府軍を前に言い放ちます。
言い終えるなり義光は腹を切り、自分の内臓をつかみ出しては敵に投げつけ、投げつけられる内臓がなくなると太刀を口にくわえて突っ伏し、喉に刃を貫いて絶命したそうです。当時の武士たちは、それこそが「勇気ある最期の振舞い」として高く評価・賞賛する価値観を持っていました。

漢の中の漢、忠義の勇士・村上彦四郎義光、今なお評価されるのはその生きざまです。

護良親王を祀る鎌倉宮には、村上宮というお宮さんがあって、村上公像は「撫で身代わり」と呼ばれ、病気や厄除けの身代わりにご利益があるとして多くの者が参拝しているそうです。
ありがとう、村上さん。