桜井の別れ・桜井の決別 史跡桜井駅跡はJR島本駅目の前

「桜井の別れ」楠木正成・正行父子が訣別する伝承地として有名

楠公様の頭にハト着地、コラ!言っても逃げません

ここはJR島本駅出てすぐの場所にある、桜井駅跡の公園です。ここには「桜井の別れ」の像があります。
四条畷神社にある像と同じでして、大楠公である楠木正成と小楠公である楠木正行の今生の別れのシーンの銅像です、ハトさん頭に止まってますが慣れてるのでこらっと言ってもびくともしません。

正式には「桜井駅の別れ」といわれ、1336年の湊川の戦い直前に、西国街道の桜井の駅で交わされたという、楠木正成・正行父子の今生の別れで「太平記」の名場面のひとつ。でして、、戦前までは国語や修身の教科書に必ず載っており日本中の人たちが学んだ逸話だったそうです。ちなみに駅は駅でも昔に鉄道ないので、街道沿いの宿駅のことであって、宿場の馬の継ぎ渡し(乗り換え)をする場所のことで現在使われている駅の語源になったものです。だからちょっと広い場所なんです。

楠木正成が死を覚悟した際に「命尽きるとも七度生まれ変わりて国に報いん」と誓ったことに由来する「七生報国」の文字の石碑もあります。
「子わかれの 松のしつくに袖ぬれて 昔をしのぶさくらゐの里」

正成は自分の死を予測して11歳の嫡子・正行に対し「生き残っていつの日か朝敵を滅せ」と諭し、後醍醐天皇から下賜された菊水の紋が入った短刀を授け今生の別れを告げ故郷の河内へ帰した、という桜井の別れ。
湊川の戦いで正成は敗れその首は足利尊氏の配慮で正行に返されたものの、正行は父の教えのように足利尊氏に戦いを挑み、四条畷の飯盛山にて高師直に敗れてしまいます。

大塔村の名前由来になっている護良親王=大塔宮も同じく、後醍醐天皇の南朝側で戦い散ったのですが、建武中興十五社として四条畷神社や湊川神社、鎌倉宮などに建武中興(建武の新政)に尽力した南朝側の皇族・武将などを主祭神とする15の神社に祀られています。

目の前のとおりは楠公通りというのですが、奇策を用いて戦ったり、湊川の戦いに出る際には負けて死を覚悟しながらも最後まで忠孝を大切に義を貫き、知性も武芸にも長けた楠公さん、みんな大好きです。