五條市大塔、大塔郷土館のかっこいい大塔宮護良親王の像

大塔宮はだいとうのみや、けど恐れ多いのでおおとうのみや、と呼ぶようになったらしい

谷瀬のつり橋が近くのところです。

大塔宮は皇統第96代後醍醐天皇の皇子、 護良親王(もりながしんのう)ですが、ここ、大塔郷土館には大塔宮護良親王のかっこいい像がおります。

鎌倉市にある鎌倉宮さんは別の名を大塔宮と言いまして、護良親王をまつっておられますが、和歌山県の田辺市には大塔がありまして、同じく護良親王のお名前を頂戴しております。

護良親王は文武に長け有能な方だったようなので、みんな名前にあやかっております。護良親王については28歳の生涯と短かったものの、逃げ上手の若君では最期は淵辺義博の刀を歯で噛みちぎったエピソードも掲載されていて、吉野神宮や湊川神社、そして鎌倉宮に奈良と大塔など、南北朝時代の後醍醐天皇などの話が多々出てきます。

吉野神宮は神宮なのでみかど、後醍醐天皇様で、
湊川神社は楠木正成様です。

千早赤阪城で籠城立てこもって、その間に糞尿を固めて焼いて投げつけたことから「やけくそ」という言葉がうまれた、など、中学校の歴史の和田先生に教えてもらいましたが、こういう雑学こそ歴史に興味持つ大事な雑学です。

出生
鎌倉時代末期、延慶元年(1308年)
父は皇太子治親王(後の後醍醐天皇)。

天台屋主
嘉暦2年(1327年) 比叡山延暦寺天台座主に就任。

封幕運動
元弘元年(1331年) 元弘の乱、勃発。
父帝(後醍醐天皇)を助けたが、笠置山が陥落すると奈良・十津川・吉野・等を流浪して、諸国に令旨を発し反幕勢力の封合に努めた。

大塔
吉野に分け入った際、赤松川祐・平賀三郎などの忠臣に助けられを難を逃れたり、十津川・大塔の地では戸野兵衛や竹原八郎らの豪族の手厚い加護を受けた。

建武の中興

元弘3年倒幕の偉業を達成。征夷大将軍に就任。やがて、足利尊氏との対決姿勢を顕著にする。

身柄拘束
建武元年(1334年)上洛した大塔宮は、
結城親光・名和長年に捕らえられ、身柄を尊氏の引きされた。
のちに、鎌倉の弟足利直義に引き渡された。

最期
足利直義の命を受けた淵辺伊賀守義博によって非業の最期を遂げた。

鎌倉宮
明治天皇が、大宮の道徳をしのび、奉斎をするために鎌倉市に鎌倉宮を創建されて今日に至る。
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