大塔宮護良親王、田辺はおおとう村ですが正式名称はだいとうです。同じ名前つけたらおこがましいと読み方を変えたそうです。
後醍醐天皇の皇子であった護良親王は、天台座主(比叡山延暦寺の貫主)となり、大塔宮と呼ばれるようになります。
11歳にして比叡山延暦寺に入り、20歳より同寺天台座主(第116,118世の2世)を務められ法名を尊雲と号されました。尊雲法親王はこの期間を比叡山の大塔に在されたことから、世に大塔宮と称されていました。
比叡山延暦寺は東塔、西塔あるけど大塔はないのですが、まあそのへんはいろいろあるのでしょう。
護良親王は比叡山から後醍醐天皇を助けるため、相楽郡笠置町の笠置山に行き、楠木正成の千早赤阪に行くものの後醍醐天皇側が劣勢になり、吉野に行きそのまま南下して十津川のほうまで下っていくのですが、奈良県や和歌山県に大塔という地名があるのはその時の由来です。
享年27歳でしたが文武に長けた有能は方だった大塔宮護良親王、御遺跡をまさかの比叡山延暦寺で発見したのですが過去さかのぼるとそうでした。