金峯山寺蔵王堂の大塔宮吉野城本陣跡

歌書よりも軍書に悲し吉野山

奈良県吉野郡吉野町、吉野山の金峯山寺蔵王堂の前の玉垣に囲まれた一画は、鎌倉幕府倒幕の元弘の乱で大塔宮(おおとうのみや=護良親王・もりよししんのう/後醍醐天皇の皇子)が蔵王堂を本陣として山上の城塞化を押し進めた吉野城本陣の跡。
「大塔宮(だいとうのみや)御陣地」と刻まれた石柱が建っています。
元弘3年(1333)大塔宮護良親王(だいとうのみやもりながしんのう)が鎌倉幕府勢に攻められて、吉野落城を覚悟して最期の酒宴をされた所です。その際の陣幕の柱跡に植え続けられているのが、この桜です。

ここは金峯山寺蔵王堂、ケーブルカーで登って10分くらい歩いてきたところです。
南朝があった吉野、金峯山寺蔵王堂です。

鎌倉軍に攻め立てられて吉野で陣を張ったのですが、裏切りもありもうあかん状態になった大塔宮、最後の晩餐やとここで会を催したそうです。
そこで陣に戻ってきた村上よしてるさん、(村上義光・村上義日)護良親王にむかって早く逃げて、甲冑貸してもらったら身代わりで自分死ぬから、言って護良親王を逃がします。

よしてるさんの最期は
「天照太神の御子孫、神武天皇より九十五代の帝、後醍醐天皇の第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に滅ぼされ、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ」と絶叫し、自分のはらわたを引きちぎって敵に投げつけ、太刀を口にくわえた後、うつ伏せになって絶命したといいます

太平記の一文ですが、命に代えても護良親王を守り切った姿は正に忠なるもの、であって、今でも近くにお墓がありますし語り継がれているのは、いまを生きる私たちにも十分通じるものがあるからだと思います。身代わりとなって壮絶な最期を遂げることは600年経っても「村上さんは本当に偉大な人だ・・」としか声を出ないです。
よしてるさんは鎌倉宮に「村上社」があるそうで、またおまいりに行きたいと思います。